「生殖記」では、複雑化した社会に適応しようとするマイノリティを描いていたが、本書はエンタメ業界を舞台に、仕掛ける側とのめり込む側の動きが描かれる。
今のエンタメ業界の戦略はすさまじい。ナチス時代のプロパガンダ、大衆はバカだ、繰り返しで浸透させるといったレベルではない。個人の嗜好に合わせるといった生易しいものでもない。心の隙間に入り込むために物語を用意し、気がつかないうちに誰もにオーダーメイドの安らぎを感じさせてしまう。怖ろしいほどの戦略だ。
武藤澄香は、留学を希望しながらも、周囲にうまく合わせられない自分を歯がゆく思っている。心に隙間を感じ、のめり込みたいという気持ちだけはあるが、対処法が見つからない。そこに父親が関与したアイドルがすっと入り込んでしまう。
隅川絢子は。推しのアイドルが自殺してよりどころをなくしてしまう。推しから得られる快感はまさに劇薬並みであったため、失ったときの打撃が大きすぎる。先鋭化されたエンタメ業界の負の影響を体現しているようで、ついには怪しげな宗教まがいの団体に取り込まれてしまう。
久保田慶彦は、彼女たちのいる土俵にすらあがっていない。娘とうまくコンタクトがとれず、仕事でも今のプロモーションの進化についていけない。挙げ句の果てに、引きこもったアイドルの自宅に押しかける。コンビニの差し入れを持って励まそうとするなど昭和の発想だ。社会にでた若者が、そのきびしさにひるんでいるくらいにしか見ていないのだろう。
エンタメ業界をはじめとする今の厳しい社会では、仕掛ける側だけでなく、のめり込む側もきびしい戦いの場にいることを自覚している。今の若者は、親の世代よりも個のレベルは高いところにまで行っている。複雑化した社会が相手では、そうでなくては戦えない。その個をもってしても、自分を適応させるのは容易ではない。久保田慶彦はそれに気がつかない。
先鋭化された今の世の中で感じる生きづらさを見事に浮き彫りにした作品。考えさせられる。

