シェイクスピア著「リア王」の感想。道化になりきった人たちの滑稽な悲劇の物語。

シェイクスピアの四大悲劇のひとつ。黒澤明監督の「乱」の原作にもなった作品。

リア王は退位を前にして、国を3人の娘に分け与えるとことにする。長女と次女は心にもない言葉で父を喜ばせたが、三女は素直な物言いをしたため勘当されてしまう。退位後、長女と次女に裏切られたことを知ったリア王は、狂人となり荒野をさまよう。

登場人物の善悪のキャラ設定があまりにもはっきりしている。時代劇の正義の味方と悪代官レベルだ。そうかといって、悪人と善人の二項対立からだけでは、この物語は説明できない。

劇中に道化という人物が登場している。道化とは道化役を演じている人のこと。道化役者が道化という役を演じることで、周りの人たちを笑わせる。人からは笑われる存在だ。それなのに世の中の出来事を的確に見る目を持っている。

考えてみれば、王は王の役を、臣下は臣下の役を、王の娘は王の娘の役を演じているとも考えられる。ただの役なので、その人物像を善悪という単純な対比で描写することができる。

しかし、リア王もグロスターも演じている役が自分自身であると思い込んでしまう。そして、役に備わった権力を我が物のように行使する。王や臣下であろうとするあまりに、ミイラ取りがミイラになってしまったのだ。道化の目から見れば、道化以上の滑稽さがあるのに、彼らは気がつかない。

だが、三女は違う。父からどんな仕打ちを受けても、それは役の上でのこと。決して親を慕う気持ちは失わない。道化の目を持ち続けている。

リア王は、すべてを失い徘徊するようになると本当のことが見えてくる。グロスターもすべてを亡くし、両目さえもを失っているのに真実が見えてくる。ここに道化を笑い飛ばす権力者たちが、実は何も見えていないという皮肉がある。

慈しみの心や親子の情は、人間が本来持っているもの。それが役になりきってしまうことで、忘れ去ってしまう人たちの滑稽さが描かれている。そういう人たちによる世の中はカオスとなり、当然ながら悲劇が起きる。