映画「山猫」(1963)ヴィスコンティ監督の感想

19世紀半ばのイタリア統一戦争のさなかのシチリア島が舞台。大きな時代の流れの中で、名家の当主サリーナ公爵を通じて、滅びゆく貴族の美学を描く。

バート・ランカスター演じる公爵は、頑迷で古いタイプの人間ではない。寧ろ、柔軟な思考で開明的な考えができる人だ。それだからこそ、世の中の流れには逆らえないことを痛いほどわかっている。自身は孤高を貫き滅びの道を選ぶが、家門の存続を甥に託す。

アラン・ドロン演じる甥は、軽薄で節操がない。革命軍から王軍にためらいもなく鞍替えする。婚約者の父である市長も、目先の利益に目ざとい成り上がりものだ。公爵は、こういった目先の利く人間がこれからの時代の主役になることを理解している。彼の生き方からすると、軽蔑に値するかもしれないが、決して甥に小言を言ったり、市長を貶したりはしない。山猫と獅子の時代から、ジャッカルときつねが支配する時代になりつつあるだからだ。

世の流れはどうであっても、美は存在する。甥の婚約者のアンジェリカだ。まばゆいばかりの美しさは、時代を越えて存在し、今は甥の手にある。

シチリアの黄金の風景が美しい。延々と続く舞踏会の絢爛豪華さは、ヴィスコンティ監督ならではの演出だ。ここまでやるのかと言うほどのきらびやかさだが、これこそが貴族なのだろう。