映画「ミッキー17」(2025)の感想。ポン・ジュノ監督。

「パラサイト 半地下の家族」のポン・ジュノ監督によるアメリカ映画。未来の宇宙を舞台に、ブラックユーモアを交えて社会風刺を描いた作品。

地球では負け組とされた人々が、ある惑星に送り込まれ、独裁的なリーダーによって管理された社会で暮らしている。そこは非人間的な行為が当たり前のように行われ、再生技術によって死者をよみがえらせることすら利用されている。死のリスクが高い仕事を再生人間に担わせることで、使い捨て労働が成立しているのだ。

主人公ミッキーはすでに16度死んでおり、再生された17番目の個体として再び働かされている。「どうせまた生き返るのだから」と、底辺層は非人間的に酷使される。彼らの存在は完全にリソースとみなされているのだ。

興味深いのは、この社会では恋人が黒人であることは何の問題にもならない点だ。かつての肌の色による差別などは可愛らしかったという皮肉が込められている。ここで描かれているのは、それをはるかに超えた差別社会である。

ある日、ミッキー17とミッキー18が同時に存在するという手違いが起きる。これは支配者層にとって大きな脅威である。従順な奴隷としてどれほど巧みにリソース化しても、体制に対する怒りの感情を持つもの。同じ人間が複数存在することで、それが顕在化してしまう危険性があるからだ。

顔のない小動物「クリーパー」は、言うまでもなく大衆の象徴だ。一匹一匹は無力でも、集団となれば体制を転覆させる力を持ちうる。為政者たちはそれを恐れ、制御できずにいる。

この映画は、次のような問いを観客に投げかける。「人類は何のために進歩を求めるのか」「その進歩は、むしろ人間を追い詰めるものではないのか」。シニカルで、意味深い問いかけだ。