韓国映画「バーニング 劇場版」感想(ネタバレ)(原作村上春樹)

年末に見たNHK版「バーニング」。単発ドラマだと思って見たのだが、結構話題になっている作品のようだ。その完全版の「バーニング 劇場版」が封切りになったので、早速見てきた。NHK短縮版では、主に最後の方が53分カットされている。

短縮版は、幼なじみが失踪し、お金持ちが女に化粧をしているシーンで終わった。劇場版の感想はそのあたりから。


幼なじみがいなくなって、主人公は彼女を探し始める。お金持ちにも接触するが手がかりをつかめない。そんなとき、音信不通の母が突然現れ、井戸は確かにあったと言う。そして、幼なじみの腕時計と猫をお金持ちの家で見つける。

主人公はお金持ちをつけまわす。最後は、呼び出した彼を刃物で殺害し車に火をつける。それから裸になって車を運転し現場から離れる。


井戸が存在しないことがわかった頃から、主人公はお金持ちに疑惑をいだく。すべてが彼の策略なのではと。

幼なじみはお金持ちが化粧をさせてつくった幻想だ。彼女には、自由、昔の記憶、女、愛、情という主人公が求めるものを持たせて惑わせ、幻想の世界の入り口である井戸から主人公に引き上げさせる。そして彼女とつながる猫の世話という仕事を与える。パントマイムの原理で巧妙に幼なじみと猫の存在を信じ込ませて。

更に洗脳は続く。大麻を吸わせたり、ビニールハウスを燃やす話をすることで、主人公にビニールハウスを燃やさせようと仕向ける。庶民の大事な生活の糧なのに、同じ庶民の主人公は火をつけて燃やそうとしてしまう。

こうなれば、母親が無いはずの井戸の存在を肯定したとき、主人公はここにもお金持ちの意図が背後にあるのではと疑ってしまう。

幼なじみの腕時計と猫をお金持ちで家で発見したとき、疑惑は決定的になる。存在すると思った猫のボイルは、ボイラーから立ちのぼる単なる蒸気であり、実際にはここにいたのかと。

ここで自分たちの苦境は、お金持ちたちによって仕組まれたものだとはっきりと思い込む。個人的な不満であるリトルハンガーが社会的不満のグレイトハンガーと変わった瞬間だ。小説家志望なのに一行も書かなかったのは、視点が内面に向いていて不満が単なる個人的なものと思い、社会的な問題だと認識していなかったからだ。

主人公の社会的立場は、アルバイト先で番号で呼ばれるような存在。相手の都合でかかってくる意味のない無言電話に右往左往するだけで、こちらから電話する手段を持たない存在。簡単に猫の世話係にさせられてしまう存在。農家に取り残された牛のようにまさにジリ貧状態。

そういう搾取される存在にさせたのがあのお金持ちだ。すべての不満が、憎悪として敵対者であるお金持ちに向けられる。

設定で、主人公の家が軍事境界線の近くにある点も見逃せない。前の世代は、国家の分断によって同胞同士で血を流す朝鮮戦争を起こし、その分断が今も続いている。暴力事件を起こした父親の後始末をせざるを得ない主人公のように、若い世代は前の世代の負の遺産を背負っている。

だが、主人公は、嫌悪する父の世代がやったのと同じことを選んでしまう。暴力と血だ。今度は社会の分断によって。

最後に、主人公が裸になるシーンは意味深長だ。服を脱ぐことは、お金持ちとか庶民とかの区別なく素の人間になること。

確かにお金持ちは主人公とは違った価値観を持つ。周りにあるのは新しいものばかりで、古いものに執着を持たない。クリエイティビティの追求。涙を流さず楽しみを追求するドライな考え方。コンタクトレンズで矯正しないと庶民の感覚は見えない人たち。効率主義で庶民を見れば、あくびも出るだろう。そういう価値観で古いものを躊躇なく燃やす。

だが、敵であるお金持ちも、裸になれば同じ素の人間。フォークナーを愛し、教会に通う人間。社会的立場が違うだけの仲間ではないのか。彼らの立場で、悪意なく雨が降るように淡々と、古いものを排除して新しい価値のあるもをつくろうとしているだけではないのか。それが庶民のビニールハウスを焼くことになってしまっているのではないか。悪いのはお金持ちではない。社会構造が敵対状況をつくっている。

前の世代は国家の分断で血を流したが、今の若い世代は社会の分断で血を流すところまできている。社会への警告だ。


正直言って、ここまでやるのかと思う。NHK短縮版のように女性に化粧をするシーンで終わったほうが、余韻があるし、十分に社会の分断を描いていると思うのだが。

ここまでやるのが活力ある韓国映画の特徴。いずれにしてもイ・チャンドン監督の傑作だと思う。結局、バーニングは社会全体が燃えているということかな。